なんJ歴史部@2chまとめブログ

なんJの歴史スレを中心にまとめているブログです。




    無能シリーズ

    10670da0


    1
    名無しの歴史部員 2015/12/26(土)20:35:38 ID: ID:CJk

    彡(^)(^)「蘇我倉麻呂の三男として生まれたンゴwwwよろしくニキーwww」(625年頃?)
    推古天皇「ほな…また…(ホウギョー」
    蘇我蝦夷「次の天皇は敏達帝の第一皇子であられる押坂彦人大兄皇子の次男である田村皇子様こそが相応しい」
    境部摩理勢「ちょっと待つんや!次の帝には皇太子であられた聖徳太子様の長男である山城大兄王様やで」
    蘇我倉麻呂「…」


    蘇我 赤兄(そが の あかえ、推古天皇31年(623年)?[1] - 没年不明)は、日本の飛鳥時代の豪族。姓は臣。蘇我馬子の孫で、蘇我倉麻呂(雄当)の子。宗我舎人(そがのとねり)を別名とみる説と、別人とみる説とがある。

    658年に有間皇子を謀反に誘い、その後に事を通報して皇子を死に至らしめた。天智天皇に仕えて669年に筑紫率、671年に左大臣になった。672年の壬申の乱のときは大友皇子(弘文天皇)側の重臣で、敗れて捕らえられ、子孫とともに流刑になった。
     
    【蘇我赤兄とかいう無能wwwwwwwwwww】の続きを読む

    img_1


    1
    名無しの歴史部員 2015/12/08(火)21:52:07 ID: ID:Sy9

    彡(^)(^)「北条御由緒家七家の松田憲秀の長男として生まれたンゴwwwよろしくニキーwww」(1550年代中盤頃?)
    今川義元「桶狭間で織田のうつけに討ち取られたンゴwww」(1560年)
    北条氏康「西方は安心やから上総の里見を攻めるで~」
    里見義尭「景虎殿…助けてクレメンス…」
    長尾景虎「甲相駿三国同盟が動揺しているしている今こそが北条征伐の絶好機じゃ」




    笠原政尭

    笠原 政晴(かさはら まさはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。「政尭」(まさたか)で広く知られるが、これは俗説で北条氏の文書上では「政晴」(まさはる)とされる。
    松田憲秀の長男。尚、「政」の字は北条氏政から偏諱を受けたものである。

    従来、笠原信為の子・康勝の養子となってその後を継いだとされていたが、北条氏の文書では天正3年(1575年)に笠原綱信の子である美作守某の跡継ぎである千松が幼少であったために、天正11年(1583年)までの9年間の約束で陣代として笠原氏と伊豆郡代の地位を継いだことが判明している。

    天正7年(1579年)に甲斐武田氏と北条氏の同盟関係が解消されると、武田家と隣接する防衛線には重臣が配されたが、中でも要害とされた武田氏の沼津城に隣接している戸倉城の守備を任された。が、その後2年間、他の諸城では武田氏との小競り合いが続き、戦功をあげる報告も届いたが、戸倉城からの戦功報告はなく、家中では「臆病者」との風説が広がり、立場を悪くしていった。そんな最中、武田家臣で沼津城主の曾根昌長から内応を持ちかけられ、天正9年(1581年)10月には武田氏に内応し、北条氏を離反。武田氏の支援を受け、同族(康勝の実子)の笠原照重(てるしげ)を攻めて敗死させている)。

    甲州征伐により武田氏が滅亡した後は戸倉城も失い、路頭に迷っていたが、父・憲秀の取り成しもあって北条氏に帰参を果たし、剃髪して正巌と号した。 豊臣秀吉の小田原征伐では憲秀と共に秀吉方に降ろうとした事が露見、憲秀は監禁され、政晴も城内で殺害された。


    【笠原政尭とかいう無能wwwwwwwwwww】の続きを読む

    Hosokawa_Yoriyuki


    1
    名無しの歴史部員 2015/11/25(水)21:05:33 ID: ID:BLH

    彡(^)(^)「三河国額田郡細川郷地頭の細川和氏の長男として生まれたンゴwwwよろしくニキーwww」(1320年頃?)
    彡(^)(^)「パッパのオトウットの頼春様にも子どもが生まれたで」(1329年)
    細川頼之「三河国額田郡細川郷地頭の細川和氏の弟である細川頼春の長男として生まれたンゴwwwよろしくニキーwww」
    後醍醐天皇「くそっ!討幕計画が露見してしまったから笠立山に逃れるンゴ」(1331年)
    楠木正成・護良親王「赤坂城で挙兵するやで」


    細川 清氏(ほそかわ きようじ)は、南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府2代将軍足利義詮の執事、伊勢・伊賀・若狭守護。

    【細川清氏とか言う無能wwwwwwwwwww】の続きを読む

    DSCF91711


    1
    名無しの歴史部員 2015/07/11(土)19:25:34 ID: ID:oi9

    彡(^)(^)「常陸介小田治久の長男として生まれたンゴwwwよろしくニキーwww」(1337年)
    新田義貞「朝敵足利尊氏を成敗するんじゃ」
    北畠顕家「後醍醐天皇を上洛させるために東北から出撃するで」
    後醍醐天皇「ワイの復権も時間の問題じゃ」
    小田治久「北畠様は10万騎の大軍を率いられて上洛されるのか」





    小田孝朝

    小田 孝朝(おだ たかとも、延元2年/建武4年(1337年) - 応永21年6月16日(1414年7月3日)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。小田氏の第9代当主。第8代当主・小田治久の子。太郎。讃岐入道。
    小山義政の乱が起こったとき、その鎮定に先鋒として功を挙げた。ところがそれに対して鎌倉公方・足利氏満の恩賞が不当に少なかったことへの不満や小山氏が滅ぼされたことに対する不安から、1386年の小山若犬丸の乱の首謀者である小山若犬丸を秘かに匿った。
    ところが、翌1387年孝朝親子が鎌倉に参仕している最中にこの事実が発覚、6月13日孝朝親子を幽閉した足利氏満は上杉朝宗らの討伐軍を小田城に向かわせる。主を捕えられた一族・家臣は小田城・男体城に籠って抵抗するが、翌年7月19日には男体城を攻め落とされて降伏した(小田氏の乱)。
    戦後、京都の将軍足利義満の命令もあり、氏満は孝朝の一命は助命し、所領の一部没収だけの処罰にとどめている(『頼印大僧正行状絵詞』)。
    その後は特に政界で目立った行動は起こさず、もともと豊かな教養人であったため、和歌や書に没頭した。和歌においては、勅撰和歌集である『新千載和歌集』・『新拾遺和歌集』に採録され、前者の中には足利尊氏に召されて詠んだ和歌も含まれている。
    また、剣術にも大いなる興味を持ち、三河の中篠頼平あるいは小田氏と同族の中条長秀から剣術を学び、小田流剣法を創始した。1414年6月16日に死去した。享年78。法号は宝昌院覚山。墓所は茨城県かすみがうら市牛渡の宝昌寺。長男の治朝に先立たれていたため、嫡孫の持家が跡を継いだ。
    【小田孝朝とか言う無能wwwwwwwwwww】の続きを読む

    3e86d6e66a371822377a072e7a707205


    1
    名無しの歴史部員 2015/06/06(土)19:11:58 ID: ID:bgb

    彡(^)(^)「伊勢国の戦国大名で従五位下侍従北畠具教の長男として生まれたンゴンゴwwwよろしくニキーwww」(1547年)
    彡(^)(^)「オトウットの具藤が生まれたでwww」(1552年)
    彡(^)(^)「チッチが朝廷から正四位上参議に叙されたで」
    彡(^)(^)「チッチが朝廷から従三位左近衛中将に叙されたで」
    北畠晴具「そろそろムッスコの具教に家督を譲るか」




    北畠 具房(きたばたけ ともふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第9代当主。

    天文16年(1547年)、第8代当主・北畠具教の嫡男として生まれる。

    永禄6年(1563年)、父・具教が隠居し家督を相続した。

    永禄12年(1569年)8月、織田軍に大河内城(現在の三重県松阪市)を攻められ、籠城して死守するも、10月に父と共に織田信長と和睦した(大河内城の戦い)。和睦の条件として、信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を養嗣子として迎えることになる。ただし、谷口克広はこの戦いではむしろ織田方が次第に劣勢となり、信長の要請を受けた将軍・足利義昭の仲介で和議に入ったとする説を出している。また、久野雅司は信長が茶筅丸の入嗣を強要したことで義昭の不快感を招き、信長と義昭の対立のきっかけになった事件とする見方をしている。

    天正3年(1575年)、茶筅丸が具豊として北畠家の家督を継ぐと、具房は中の御所と敬称されるようになる。

    天正4年(1576年)11月、大台の三瀬台に隠棲していた父・具教が信長・信意(具豊改め)父子によって殺害される(三瀬の変)と、具房は幽閉の身となり、その身柄を滝川一益に預けられて安濃郡河内に3年間幽閉された。

    後に幽閉は解かれ、名を信雅(のぶまさ)に改めた。その直後の天正8年(1580年)1月5日に死去。享年34。

    【北畠具房とか言う無能wwwwwwwwwww】の続きを読む

    このページのトップヘ