室町時代

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    名無しの歴史部員 2018/06/04(月)15:51:29.50 ID: RPZ4g1Pda.net

    足利政権237年間
    藤原政権275年間

    こんな長い事、政権安定させられるもんなんだな




      【ワイら「徳川幕府凄いなぁー260年も続くとか」足利家「お前ら俺の事忘れてるよね」藤原氏「…」コクン】の続きを読む

    Hosokawa_Yoriyuki


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    名無しの歴史部員 2015/11/25(水)21:05:33 ID: ID:BLH

    彡(^)(^)「三河国額田郡細川郷地頭の細川和氏の長男として生まれたンゴwwwよろしくニキーwww」(1320年頃?)
    彡(^)(^)「パッパのオトウットの頼春様にも子どもが生まれたで」(1329年)
    細川頼之「三河国額田郡細川郷地頭の細川和氏の弟である細川頼春の長男として生まれたンゴwwwよろしくニキーwww」
    後醍醐天皇「くそっ!討幕計画が露見してしまったから笠立山に逃れるンゴ」(1331年)
    楠木正成・護良親王「赤坂城で挙兵するやで」


    細川 清氏(ほそかわ きようじ)は、南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府2代将軍足利義詮の執事、伊勢・伊賀・若狭守護。

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    DSCF91711


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    名無しの歴史部員 2015/07/11(土)19:25:34 ID: ID:oi9

    彡(^)(^)「常陸介小田治久の長男として生まれたンゴwwwよろしくニキーwww」(1337年)
    新田義貞「朝敵足利尊氏を成敗するんじゃ」
    北畠顕家「後醍醐天皇を上洛させるために東北から出撃するで」
    後醍醐天皇「ワイの復権も時間の問題じゃ」
    小田治久「北畠様は10万騎の大軍を率いられて上洛されるのか」





    小田孝朝

    小田 孝朝(おだ たかとも、延元2年/建武4年(1337年) - 応永21年6月16日(1414年7月3日)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。小田氏の第9代当主。第8代当主・小田治久の子。太郎。讃岐入道。
    小山義政の乱が起こったとき、その鎮定に先鋒として功を挙げた。ところがそれに対して鎌倉公方・足利氏満の恩賞が不当に少なかったことへの不満や小山氏が滅ぼされたことに対する不安から、1386年の小山若犬丸の乱の首謀者である小山若犬丸を秘かに匿った。
    ところが、翌1387年孝朝親子が鎌倉に参仕している最中にこの事実が発覚、6月13日孝朝親子を幽閉した足利氏満は上杉朝宗らの討伐軍を小田城に向かわせる。主を捕えられた一族・家臣は小田城・男体城に籠って抵抗するが、翌年7月19日には男体城を攻め落とされて降伏した(小田氏の乱)。
    戦後、京都の将軍足利義満の命令もあり、氏満は孝朝の一命は助命し、所領の一部没収だけの処罰にとどめている(『頼印大僧正行状絵詞』)。
    その後は特に政界で目立った行動は起こさず、もともと豊かな教養人であったため、和歌や書に没頭した。和歌においては、勅撰和歌集である『新千載和歌集』・『新拾遺和歌集』に採録され、前者の中には足利尊氏に召されて詠んだ和歌も含まれている。
    また、剣術にも大いなる興味を持ち、三河の中篠頼平あるいは小田氏と同族の中条長秀から剣術を学び、小田流剣法を創始した。1414年6月16日に死去した。享年78。法号は宝昌院覚山。墓所は茨城県かすみがうら市牛渡の宝昌寺。長男の治朝に先立たれていたため、嫡孫の持家が跡を継いだ。
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    名無しの歴史部員 2015/04/18(土)20:05:19 ID: ID:AdN

    彡(^)(^)「信濃国守護小笠原長基の次男として生まれたンゴwwwよろしくニキーwww」(1366年)
    鎌倉府「信濃は10年前に桔梗ヶ原で敗れた南朝方の宗良親王がおる」
    室町幕府「せやから何やねん」
    鎌倉府「関東には鎌倉府に反対する勢力も多くこれを征討する必要がある」
    鎌倉府「信濃を鎌倉府の西を守る存在にしたいから関東管領の上杉朝房を信濃国守護職に任じてくれへんか?」



    小笠原 長秀(おがさわら ながひで)は、室町時代の武将、守護大名。信濃守護。小笠原長基の次男。長将の弟、政康の兄。幼名は豊若丸。

    初めは上洛して将軍足利義満に出仕した。明徳3年/元中9年(1392年)、相国寺の落慶供養では先陣随兵を務めている。応永6年(1399年)の応永の乱では畠山基国に従って堺を攻め、同年、信濃守護に補任された。入部に先立ち、将軍足利義持は水内郡太田荘領家職について、押領人を退けるよう御教書を発した。

    応永7年(1400年)、京都から下向し、国衙の後庁のあった善光寺に入部したが、国人に対する排斥と守護権力の強化は大いに反感を買い、有力武将や大文字一揆勢との大塔合戦へと発展し、大敗して大井光矩の仲介によって京都に逐電した。応永8年(1401年)に信濃守護職を解任され、信濃は幕府の直轄領(料国)となった。応永12年(1405年)に弟政康に家督と小笠原氏の所領を譲渡した。

    応永31年(1424年)筑摩郡で死去(『豊前豊津小笠原家譜』)。享年59。著書に「犬追物起源」がある。


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