Imagawa_Yoshimoto


1
名無しの歴史部員 

徳川家康は幼少時代、今川義元のもとに人質として預けられていました。義元は家康の才能を見抜き、家臣に向かって「むごい教育をさせよ」と命じました。
そこで家臣は、家康を日が昇る前から起こし、粗末な食べ物しか与えず、一日中読み書き、武術、馬術とくたくたになるまでしごきました。
しばらくして義元は「むごい教育はどうなっているか?」と聞きました。
家臣が得意顔で報告すると「馬鹿者!」と一渇。
「"むごい教育"とは、朝は好きなだけ長寝させ、山の幸や海の幸あふれる贅沢な食事を与え、武術や学問がいやと言えば、決して無理強いせず、常に好むものをおき、本人の望むとおりになんでも与えてやるが良い。そうすれば、大概の人間はダメになる」と教えました。




 

2名無しの歴史部員

これはむごい




3名無しの歴史部員

このあと信長に殺されたんだよね…




4名無しの歴史部員

>>3
むごい




7名無しの歴史部員

>>3
さらにこのあと家康に滅ぼされたんだよね…




8名無しの歴史部員

>>7
むごい




5名無しの歴史部員

そんで使える年頃になったら汚れ仕事やしな




6名無しの歴史部員

これは海道一の弓取り




9名無しの歴史部員

つまりワイらおんJ民はむごい教育でダメになった竹千代なんやな




10名無しの歴史部員

こいつ息子にも惨い教育しとったん?




11名無しの歴史部員

>>10
義元は息子の教育に関わってない




12名無しの歴史部員

1560年 「桶狭間の戦い」。 今川義元が京都を目指し上洛を開始、しかし途上の桶狭間にて織田信長の急襲を受け、戦死。
     ここから今川家は衰退していき、同時に徳川家康は三河にて独立。
1567年 武田信玄の子、武田義信がクーデターを起こすが失敗、自害。
     義信の嫁である今川義元の娘は今川家へ返され、これにより今川家と武田家の婚姻関係は破棄。
1568年 武田信玄、今川家の駿府城を攻撃、駿河を制圧。
1569年 徳川家康、今川家の最後の城を攻略。 今川家、滅亡。




13名無しの歴史部員

流石に歴史に名を刻むやつは言うことがちゃうわ




14名無しの歴史部員

氏真は家滅ぼされたけど最後幕臣でええ暮らししながら長生きして死ねた有能やぞ




23名無しの歴史部員

>>14
氏真は幕臣になってない死ぬまで捨て扶持もらってた立場
孫の代に家が復興して子孫は孫の方は中興の祖って崇めてるけど氏真は家を潰した暗君扱い




24名無しの歴史部員

>>14
そもそも桶狭間で親父どころか屋台骨支える武将全員死んだのにどうやって国を維持しろというのか




25名無しの歴史部員

>>24
松井やら浦原やら失ったのでかい




15名無しの歴史部員

ワイこの話聞いたときはえ〜ってなった




16名無しの歴史部員

家は滅びたけど一族は存続させる有能




17名無しの歴史部員

ならなんで最初にそうと言わないんですかね




18名無しの歴史部員

今川の義元さんが戦国初期にやられてから駿河はずっと有力大名おらんかったんよなぁ…
全部有力大名の家臣ばかり




19名無しの歴史部員

はえ〜ワイもむごい仕打ちうけたかったやで




21名無しの歴史部員

氏真は教養はあるからな
義元だって雪斎がいなきゃそこまでって感じやろ
もし、家康に野心がなく氏真に心酔してたら歴史は変わったんじゃね?




27名無しの歴史部員

氏真は一応は文政としては優れてたって聞いた事はあるわ
戦国じゃなければ良い領主やったし桶狭間が戦国の火蓋と考えると
そら唐突に大戦争時代になったら対応しきれんやろ…




28名無しの歴史部員

信長の野望では流石に見直しされて最近はゴツイ精巧なオッサンになってるな義元




32名無しの歴史部員

お前らは自らにむごい教育をしたよね




33名無しの歴史部員

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 00:10:30 ID:DfgjsB5V
いい話スレで遠州錯乱の話題が出たので

父義元が死んだ後今川氏真は徳川家康と三河を巡って争っていたのだがちょうどその時
西三河で一向一揆が起こり、松平家は家臣が二手に分かれて争う事態になっていた。
それを聞いた氏真、それに乗じて松平家を滅ぼせ…なかった。
駿河と三河の間の国遠江で家臣の反乱が相次いだのだ。

まず井伊谷の井伊直親が松平家に通じた疑いで朝比奈泰朝に殺されたのを初めとして
見附端城の堀越氏延、二股城の松井氏、犬居城の天野氏、引馬城の飯尾連竜が
相次いで反乱を起こしたのだ。
後に遠州?劇とも呼ばれるこの事件は永禄五年(1562)から永禄八年まで続き、
最終的に飯尾連竜が再度家康に通じたとして駿府城で誅殺されるまで続いたのである。

この乱によって今川家は西三河に侵攻するどころか東三河を家康に完全に掌握され
残った遠江の諸将からも反感を買い、国力の弱体化を内外に示すこととなったのである。

その後氏真は領国の立て直しを図るべく検地や楽市などを実施するのであるが時すでに遅し、
信玄に完全に目をつけられており武田・徳川連合軍に攻められた挙げ句遠州掛川城から
小田原へと落ち延びるのはそのわずか3年後のことである。




34名無しの歴史部員

義元ニキは多くを語らない人やったんか




引用元:http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1552477915/