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    名無しさん@おーぷん2017/09/15(金)12:30:38 ID: ID:sNh

    ・親父が偉大だからそれと比較されて無能扱いされる
    ・桶狭間の戦いで優秀な家臣を多く失い、親父の弔い合戦を行うことも出来なかった
    ・今川家の人質だった松平元康に裏切られ、三河を分捕られる
    ・武田信玄に一方的に同盟を破棄され、駿府から脱出せざるを得なくなる
    ・松平家と和睦し、北条の下に身を寄せるが、4代目氏政の時代に伊豆を追い出される

    あんな状態で当主やらされるって可哀想やわ
    もっとマシな状態だったらなぁ



    今川 氏真(いまがわ うじざね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏12代当主。
    父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。
    その後は後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反(今川家の人質で家臣でもあった)した徳川家康(松平元康)と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった(主従関係が逆転した)、氏真以後の今川家の子孫は、徳川家と深い関係を持ち続け、家康の江戸幕府(徳川幕府)で代々の将軍に仕えて活躍した。 
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    通り雨 ★2017/09/12(火)03:23:37.93 ID: CAP_USER9.net

    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170912-00000004-mai-soci

    9/12(火) 3:00配信
    <明智光秀>密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ

     本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。【松本宣良】

     藤田教授によると、書状は岐阜県の美濃加茂市民ミュージアムの所蔵。和歌山県内で伝えられ京都府の古書店に渡ったものを美濃加茂市の篤志家が入手して寄贈したという。

     鳥居和之・名古屋市蓬左(ほうさ)文庫長らとの共同調査で、形状や紙質などから手紙の原本と断定し、筆致や署名、花押から光秀自筆の可能性が高いと結論づけた。本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しい。

     書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあった。

     京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。

     書状の手書きの写しは東京大史料編纂(へんさん)所に残っていたが、原本は縦11.4センチ、横56.8センチで、細かな折り目がついていた。畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられる。

     本能寺の変の動機では、2014年に岡山県で見つかった石谷(いしがい)家文書などから、光秀と懇意で信長と敵対関係になった四国の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の窮地を救うために起こした「四国説」も浮上している。

     光秀は京に上る前の信長と義昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされる。藤田教授は「義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたのでは」と話す。

     光秀は書状の日付の翌日、備中高松城(岡山市)から引き返した羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れ、逃げる際に命を落とした。

     ◇発見された書状の現代語訳

     ◆本文

     仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの慣用表現>、上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。

     一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。

     一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。

     一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。

     ◆追伸=書状では冒頭にあり

     なお、必ず(将軍の)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。詳細は上意(将軍)からご命じになられるということです。委細につきましては(私からは)申し上げられません。

     訳・藤田教授

     【ことば】本能寺の変

     天正10(1582)年6月2日、京都の本能寺に宿泊中の織田信長が謀反した明智光秀に襲われ自害した。信長は羽柴秀吉の毛利攻め救援で出陣する途中だった。秀吉は急きょ引き返し、京都・大阪府境で起きた山崎の戦いで光秀を破った。光秀の動機は信長の隙(すき)に乗じ天下を狙った「単独謀反説」や「怨恨(えんこん)説」など諸説ある。




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    Brigata_Nera_alpina_1945


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    名無しさん@おーぷん2017/09/12(火)04:11:07 ID: ID:3Jd

    日本・ドイツ・イタリア「せーの、でそいつを指差しましょう………せーの!」


    日本、ドイツ、イタリアはそれぞれ誰を指差すと思う?

    日独伊三国同盟(にちどくい さんごく どうめい、独: Dreimächtepakt、伊: Patto tripartito)は、1940年(昭和15年)9月27日に日本、ドイツ、イタリアの間で締結された日独伊三国間条約(にちどくい さんごくかん じょうやく、旧字体:日獨伊三國閒條約)に基づく日独伊三国の同盟関係。
    第二次世界大戦における枢軸国の原型となり、その後複数の枢軸側に与した国や友好国も加盟した。

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    名無しさん@おーぷん2017/09/09(土)23:06:26 ID: ID:M10

    世界最終戦争に勝つにはこうするしかないってはっきり分かんだね



    満洲事変(まんしゅうじへん、旧字体: 滿洲事變)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満洲(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。中国側の呼称は九一八事変。
    関東軍はわずか5か月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。
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